どうもです。
前コラムで宣言していた闘病日記です。

去年、2002年12月時点の成沢に戻れる「文字のタイムマシーン」です。

なに?ご乗車されたい??
そんな、奇特なお方は、どんどん先に進んでいってくださいまし。さぁさぁ、ズズイと奥へ。




※下記は、2002年12月に入院していた成沢理恵が書いた日記です。

11月(注、2002年)に入って体調が悪かった。

症状としては、熱、だるさ、のどの痛み。
忙しかったこともあり、風邪かな?と思って、医者にも行かず、市販薬。そんな日々だった。

ところが、奮発して買った1500円クラスの風邪薬を2箱あけても良くならず。
11月中旬に大きな仕事を控えていたので、それが終わったら医者にちょっくら顔でも出すか・・・と思っていた。

今だから明かすと、11月中旬くらいから38度~39度の熱がエブリデーになっており、ユンケル等ケミカルドリンク&解熱剤で一時的に処置をし、自分をごまかしごまかし生きる日々が続いていた。

『その日』は突然やってきた。
11月下旬になると、とうとうごまかしも効かず、薬も効かず、もはや大好物のスシにも反応できなくなっていた。

吐き気の登場である。
とにかく、寝ても覚めても気持ちが悪かった。何もかもがつらかった。この吐き気度合いは、なんとも言い表しようがなかった。
二十数年間生きていて、あんなに吐き気と戦ったのは、初めてだった。

その頃から食欲はほとんど失せ、私は物を食わなくなっていった。
11月後半にいくにつれ、買って来てもらったモモの缶詰もゼリーにも吐き気を覚え、とうとうお茶の香りにも酔ってしまう始末だった。水分もろくに摂れなかった。

土日はずっとベッドの上でひたすら治るのを待ち、「寝てれば治る」という自分のうわごとを信じておとなしくしていたが、全く回復が見られなかった。
とうとう、平日に会社にも行けなくなっていていた。

11月後半のある日、こんなこともあった。
相変わらず原因が分からぬ絶不調であったが、お客様との打ち合わせの約束があったので、電車で会社に向かった。

が、めまいと吐き気が襲いかかり、途中の「自由が丘」駅で下車せざるを得なかった。
車の中で漫画が読んで、爆笑できるほど、車酔いには自信があった私が、電車ごときでフラフラになってしまった。

自由が丘はご存知の方も多いかもしれないが、閑静な住宅が建ち並ぶおしゃれな高級街だ。
そんな駅の、しかも朝の人通りの多い中、私は「吐く」という人生何本かの指に収まる屈辱を味わうのか?
そんな自分との葛藤と、葛藤とは全く関係なくマグマのように押し上げてくる吐き気に耐えながら、2時間近くその場に固まっていた。

なんとか、おしゃれな街中で吐くという行為はまぬがれたが、そのままタクシーで地元に戻り、病院に直行することになった。

こんなこともあった。
もうすでに食欲もなくなり、水分摂取もつらくなっていた頃、このままでは薬も飲めないので、2日ぶりにそばという食物を摂取してみることにした。

連れて行ってもらった蕎麦屋は美味しいと評判のお店で、いつもだったらてんぷらそばといきたいところだったが、エビなんて全く食べたいと思えず、卵とじそばという一番シンプルなそばを頼んだ。
そんなそばでも、2、3回すすっただけで、もうおなかがいっぱいになり、大半を残した。

そばすら完食できない自分にがっかりしていた時、突如、奥歯の差し歯が取れた。

熱である。
連日の39度近い熱のせいで歯が浮いてしまって、その影響で差し歯も取れてしまったのである。
踏んだり蹴ったり、泣きっ面にハチである。

熱が出て、吐き気がして、こんなにカラダだるくって、おまけに歯まで抜けるのか・・・。
本当に泣きたかった。

そんなこんなで、自分でも、自分にただならぬ異変が起きていることを認めざるを得なくなり、会社を休んで通院をすることになった。
病院は地元で子供の頃からお世話になっているかかりつけのお医者さんに行った。

一番最初に診てくれた若い先生の診断は、風邪だった。
本当はいつもの院長先生に診てもらいたかったが、その日はちょうどいらっしゃらなかった。
確かに私も少々こじらせた風邪程度にしか思っていなかったし、実際風邪と症状は似ていた。

風邪薬を処方してもらい、その日は家に帰ったのだが、翌朝に当社比1.5倍くらいの吐き気に見舞われ、院長先生に診ていただくことになった。
病院の対応がとても早く、すぐに院長先生が診てくださった。
そして、「気になることがある・・・」と血液検査をしてくれた。

これが、決め手になった。

翌朝早朝に病院から緊急の呼び出しがあり、肝臓の数値が健康な人の数百倍に上がっていることが分かり、「肝炎」の疑いをもって、入院が決定した。






◆マイ・ホスピタルベッド
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病院の布団があまりにも寂しいので、家から持参しました。
ここで約1ヶ月生活してました。



◆全体図
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こんな感じです、ベッドのまわりは。






◆本&漫画
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窓を利用して、簡易図書館設立。
友達が買って来てくれた本たちです。
ずっと時間がなくて読めなかった「ジョジョの奇妙な冒険」をお見舞い毎に友達が少しづつ買い足してくれて、おかげで病院でコンプリートしました(笑)。
# by meshi-quest | 2003-06-02 14:06
皆様、お久しぶりでございます。
「久しぶり」というコトバでは片付けられないくらい、大変ご無沙汰しております。

去年の12月某日に退院してから書いた原稿が、まるでダイニングメッセージのようになってしまって、はや半年。
先日、しばらく会ってない友達からメールで、「長期の入院でつらいですね。何か重い病気なのでしょうか・・?」と心配のメールが(苦笑)。こうした「成沢未だ入院説」が流れる中、この半年、何をやっていたかと言うと・・・・・

これが、話すと長いんですわ。すんません。
追々お話していきたいと思いますが、一人で勝手に振り返らせていただくと、「半年ホントホント色々あったなぁ・・・」。そんな気分でして、このネタだけでご飯は10杯くらいいけちゃうほどです。

ある意味、去年の12月末に書いた最後の原稿は、あの当時における「ダイニングメッセージ」だったのかもしれません。
で、ゾンビのように復活。そんな具合でございます。
ゾンビでもいいんです。ゾンビ上等!


さてさて、時を去年の12月に戻して、実は入院中にずっと日記を付けていました。
日記なんか付けたの何年ぶりだろう・・・。生まれてこの方、初めて2日以上続いた日記でした。

本当は、「日記」ってダメなんですよね、私。
なんかこう・・・自分の未来の自分に今の自分を添削してもらうためのテスト用紙に記入しているみたいで(苦笑)。
書いている途中にだんだんと「今はこれでいいんだ!これしかできないんすっよ!」みたいな未来の自分へ反骨精神丸出しになってしまうので、いつの間にか虚偽発言していたり。誰にも読まれることないのに(笑)。

でも、入院中は思うところあったのか、せっせと何かあるごとに日記付けてました。
ちなみに、日記帳は、入院直前にコンビニで買った「ジャポニカ学習帳」(笑)。


その日記を、添削ぜずそのまま公開します。
病院で感じたこと、思ったことが素直に書かれていると思います。
私自身も、あの時の私が初めての独り入院で、医者から大病宣告受けて、そんな心情の中何を思っていたのか、懐かしんで読んでみることにします。

当時の自分に敬意を払って、あえて今の自分(未来の自分)からのコメントはしないこととします(笑)。





■今日のカメ




◆ジャポニカ学習帳
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この濃い緑の縁取りと、真ん中の生物がたまんないです。
すばらしい!


◆Q. 夏バテしてませんか?
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A. 早速してまーす(笑)!
最近暑い。もうダラけ始めています。もうだめです。
なので、餃子作ってみました。スタミナ料理です。やっぱ自宅で作る餃子が一番です。
# by meshi-quest | 2003-06-01 13:59
11月28日、私は緊急入院をし、そこから今日までの間、約3週間の入院生活を送った。


病名は、『伝染性単核球症』。
聞き慣れない病名だが、これに関しては追々書かせていただくとして、しばらく入院していて私なりに思ったこと、知ったことを書かせていただこうと思う。

と、言うか、ここしばらく「病院」にしかいなかったので、これしかネタがない (笑)。
テレビも見ていなかったので、ヒットチャートの第1位が誰なのかも知らん。
今のリバイバルブームに乗って、「今の1位は『神田川』なんだよ。」と言われても、「すげーな!南こうせつは!!」とか言って、信じてしまう自信がある。

ハッキリ言って、今の私はだまし時だ。


初入院・・・。
厳密には2回目なのだが、1回目は生まれてすぐにブドウ球菌というウイルスに感染し、「肺炎」を通り越して、「肺膿」という肺が腐る病気に移行し、死の宣言まで受 けたが、奇跡的に助かったという、当の本人が全く覚えていない頃の出来事なので、 自分で実感できる状態での入院は今回が初めてなのである。

「病気」は辛い。
そんな当たり前のことを身にしみて感じた3週間だった。

私は3週間で治していただき退院できたが、今こうしている間にも手術をしていたり、もう何年も闘病生活をされている方もいらっしゃる。その方々みれば、これから書く私の入院報告書は甘々で、そんなくらいで入院を語る なと怒られそうだが、そこはどうかご勘弁いただきたい。
痛みや悲しみ、辛さや淋しさの尺度は人それぞれなのだ。


最後に、入院中お世話になりました常田病院院長先生をはじめ、看護婦の皆様方、年末という忙しいこの時期に倒れてしまったにも関わらず頑張ってくださったゲーム開発スタッフの皆様、遠いところお見舞いに来てくださったり、私のお世話をしてくださった大切な友達と皆様方に、この場を借りて深くお礼申し上げる。



健康は一番だ。
心からそう思う。
今年の初詣ではお金が貯まりますようにとかそんな下世話なお祈りを卒業し (笑)、「今年は健康でありますように」と祈ろうと思う。


来年も皆様にとって、良い年でありますように。

少し早いが、今年最後のご挨拶とさせていただく。




2002年12月某日

成沢理恵
# by meshi-quest | 2002-12-06 18:12
先日、墓参りに行ってきた。

10月27日が母の命日なのだ。
前日の土曜日は雨で天気が悪かったが、27日の日曜日はカラッと晴天になった。

絶好の墓参り日和。
神奈川県・横須賀にあるお墓まで車で連れていってもらった。
窓を全開にし、高速道路でうける風がとても心地よかった。


3年前の10月27日、母は大学病院で亡くなった。
私の『一番大切なもの』を失った日だ。

これ以上大切なものは、もう私にはない。
もう「失う」こともない。
もう二度とあれほどまでの「カナシミ」に襲われることもない。


お墓に行く間、車の中で3年前のことを思い出しながら、私は助手席でこんなことを話し始めた。



当時、私は家と会社と病院の往復を毎日繰り返していた。

朝、会社に行く前に病院に寄って、前の日に洗濯した洗濯物を届け、会社に行って、夜また病院に戻って、消灯したら今日の洗濯物を受け取り、看護婦さんに後を任せて家に帰る。
それを繰り返した。

母が入院したのが9月末、亡くなったのが10月の27日だったので、1ヶ月も持たず入院生活をしてすぐに亡くなってしまった。

それだけ、本人も気が付かない内に病状が進行しており、またその病気の勢いもすごかったのだが、何よりもギリギリまで母は気丈に頑張っていたのだと思う。

母の病状は素人の私の目にも日々悪くなっていることが明らかだった。
母の肝臓を写したレントゲン写真の黒い部分が日々大きくなっているし、日に日に私の呼びかけにも反応しなくなった。

いつも気丈で元気な母を、生まれてから20数年間見続けていただけに、今、目の前にいる母を見るのがつらかった。

きっと母もつらかったと思う。
かなしそうな顔をして自分を見ている娘を見るのは。
「言葉」では何も言わなかったけれど。


10月27日12時20分、母は亡くなった。

前の日遅くまで病院にいて、朝、病院に来るのが昼前になってしまった。

病院に着いたらまず真っ先に必ず母に話しかけていた。
何も言わなかったけど、きっと聞いてるはずだと思った。

その日もいつものように病室に入って話しかけて、母の手を握った。
握った瞬間、横にあった心拍数を知らせる数値とメーターが急に下がり始めた。

一瞬、私が何か間違ったスイッチでも押してしまったのかと思ってあせった。

担当医と看護婦が一斉に病室に駆け込んできて、心臓マッサージを始めた。
おじいちゃんと、母の妹にあたるおばさんが駆け込んできた。

数分後、山を描いていたメーターが一直線になり、数字が「0」を示した。


実はそこからの記憶があまりない。

まず真っ先に会社の、当時私の直属上司である事業部長(現・弊社社長)に電話をした。
「当分、会社にはいけなくなると思います」と。

そこから廊下に出て、たぶん気を失ったのか、次に気が付いたときには待合室に座らされていた。
横にはおじいちゃんと婦長さんがいたのを覚えている。

またそこからの記憶がない。
下を向いて何を言っても反応がない私を、数回おじいちゃんが叱っていた気がする。
「今、おまえがそんなになってどうする、しっかりしろ!」と。

あの後、病院からどう帰り、葬儀屋と何を話したのかも覚えていないが、夕方頃家に着いたら親友が集まってくれていて、私の帰りを待っていてくれた。すごく嬉しかった。

無事葬儀が行えたことを考えると、何かリモートコントロールのようなもので私のカラダが動かされていたのだと思うが、少なくともココロは停止していた。


人生の中で記憶が飛んでいるのは、あの日一日だけだった。


そんな話を墓参りの車の中、3年ぶりに思い出して話をしていた。
ただただひたすら話をしていた。

思い返しても、大変だったなと思う。
自分のことながら、よくやったと思う。
いつもは「自分」を誉めないが、これだけは誉めよう思う。

夜の病棟に足を踏み入れることと、テレビで心拍数を知らせる機器が映るシーンを見るのができなくなった。
足がすくむ。トラウマになってしまった。




母は今、どこで何をしているのだろうか。

絶好調ではないけれど、あなたの娘は何とかこの世で頑張って暮らしています。
# by meshi-quest | 2002-10-30 18:11
このコラムを始めるにあたって、連載当時から2つの「決め事」を守ってきた。

自分で勝手に決め、自分で勝手に守ってきた1人遊びに近い小さな「決め事」であったが、ずっと守ってコラムを書いていた。



1つは、「身内にしか分からないような極端な話、極端に難しい仕事話、極端な感情論になりそうな時事問題には言及しないこと」である。

理由は、簡単に言うと「伝わらない」のが「恐い」からである。

ただでさえ、皆様のカオが見れないという感情と雰囲気が伝わりにくい状況の中、その話題が自分の身内ネタや仕事話や時事問題になってくると複雑さを増す。

かといって、これらのことを話したくないわけでは、決してない。
むしろ、酒飲みながら朝まで語りたいくらいだ。
「今夜は帰さねーぞー。」とか言いながら(笑)。

私の仕事は・・・何をもって『特殊』とするかは議論が残るが・・・特殊な部類には入っていると思う。
だからこそ、知りたいこともいっぱいあるかもしれないが、せっかく伝えるのであればきちんと伝えたい。
自分の考えや気持ちとセットで。

相手と向き合って話がしたい。特にこういう話は。
それだけ自分も真剣に話をするつもりだし、受けたボールは私の目を見てしっかり返球して欲しい。
そんな機会があれば、その時にはいつでも話をしたいと思う。

時事問題も、同様。
話したいことはいっぱいある。
北朝鮮の拉致疑惑、ノーベル化学賞受賞・・・そして、神々の楽園バリ島で起こった悲劇。

こと、バリ島テロ事件に関しては、本当に残念でならない。
下記「番外」にて、自分の「決め事」ギリギリのところまで少々バリ事件に関して言及させていただく。


さて、2つ目。
それは、必ず「デジカメの写真を掲載すること」である。

上記の「伝わる・伝わらない」の議論にもつながっている部分であるが、私のつたない文章を少しでも補填するため必ずデジカメ写真を一緒に載せようと決めた。

ずっとそれを貫いていた。
写真が間に合わない時は、それを待って原稿のアップを遅らせたこともあった。


ところが、先日、マイ・デジカメが故障してしまった。
頂き物のsonyサーバーショット。私の日常を克明に記録し続けてきたコイツは天寿を全うした。

今日まで、長らくコラムを休止させていただいてたが、理由の1つにデジカメ故障があった。
が、本日とうとう2つ目の「決め事」を破ってコラムを書くことにした。
買う!買う!!と周りに言いながら、とうとう今日まで買う機会を逃してしまった。
「これ以上延ばすのは・・・」と思い、悩みながらも筆を執った。
いや、「キーを叩いた」が正解だ。

なので、私が新デジカメを買うまで、写真がない。
今日もない。
次回も(たぶん)まだない。
申し訳ない。




■今日のカメはお休みです。

■番外

事件が起こったクタ地区「サリ・クラブ」は、バリ島ガイドブックとかにも必ず載っている有名なクラブだ。
実際入ったことはないが、その近辺にはよく行く。現に今年の夏にも付近を通っている。遅くまで大勢でにぎわってるクラブだ。

クタ地区はバリでもっとも栄えている繁華街で、欧米、豪州人、日本人のみならず、現地の若者も多く集まるスポットである。
東京と違って若者の遊び場が色々なところにあって分散しているわけではないので、みんなそこに繰り出す。
昼はクタビーチへ、夜はショッピング、ディナー、クラブetc。現地の子が日本人の女の子達をナンパしていたり、観光客と戯れていたり、商売したり・・・みんなが「楽しみ」を求めて集まってくる。

時には観光客との間に問題が起こったりもするが、心底は悪気はないと思われるものがほとんど。
「テロ」「事件」という重いコトバは全く似合わない。
それだけに、観光客だけでなく現地の方のショックは大きいと思う。

夜、11時台に事件は起こったと聞いた。
みやげ物屋は閉まっているが、レストラン、バー、クラブの夜はまだこれから。
ニュースでは「テロ」というコトバと共に観光客の死亡がとかく厚く語られていたが、その周りで多くの現地の人が犠牲になっていると思うと悲しい。

みんながココロとカラダをリフレッシュするために訪れるバリ島。
ここ東京・新宿のビルからじゃ、その惨劇は「想像」と「報道」の範囲でしかないが、近々、もう少し落ち着いてから現地の友達と連絡を取ってみようと思う。

今回、各方面の様々な方からメールをいただいた。
「ご無事ですか?」
「心情をお察しいたします。」
私とバリの印象が強いのだろうか、こんな事件を前にして不謹慎かもしれないが、それはちょっと嬉しかった。




ご心配いただきましたが、成沢は日本におります。
今年のバリ行き予定はございませんが、来年はまた行きます。必ず。

テロに対して、私は何もバリにはしてあげられないけど、観光客がまたいつものようにいつもの場所に戻ってくること、これが今後のバリ惨劇の傷を癒すことだと思っております。


2002年10月21日 
新宿某所にて

成沢理恵
# by meshi-quest | 2002-10-21 18:10
プロフィール
ゲームプロデューサー
成沢 理恵
「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」シリーズで知られる㈱スクウェア・エニックスを経て、 現在、ちゅらっぷす株式会社取締役、兼、ゲームプロデューサー。

ヒマさえあれば、国内、海外を食べ歩き、遊び歩く、生粋の遊び人。

その経験は、ゲームづくりにも活かされている、はず……。
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