10月27日
10月27日が母の命日なのだ。
前日の土曜日は雨で天気が悪かったが、27日の日曜日はカラッと晴天になった。
絶好の墓参り日和。
神奈川県・横須賀にあるお墓まで車で連れていってもらった。
窓を全開にし、高速道路でうける風がとても心地よかった。
3年前の10月27日、母は大学病院で亡くなった。
私の『一番大切なもの』を失った日だ。
これ以上大切なものは、もう私にはない。
もう「失う」こともない。
もう二度とあれほどまでの「カナシミ」に襲われることもない。
お墓に行く間、車の中で3年前のことを思い出しながら、私は助手席でこんなことを話し始めた。
当時、私は家と会社と病院の往復を毎日繰り返していた。
朝、会社に行く前に病院に寄って、前の日に洗濯した洗濯物を届け、会社に行って、夜また病院に戻って、消灯したら今日の洗濯物を受け取り、看護婦さんに後を任せて家に帰る。
それを繰り返した。
母が入院したのが9月末、亡くなったのが10月の27日だったので、1ヶ月も持たず入院生活をしてすぐに亡くなってしまった。
それだけ、本人も気が付かない内に病状が進行しており、またその病気の勢いもすごかったのだが、何よりもギリギリまで母は気丈に頑張っていたのだと思う。
母の病状は素人の私の目にも日々悪くなっていることが明らかだった。
母の肝臓を写したレントゲン写真の黒い部分が日々大きくなっているし、日に日に私の呼びかけにも反応しなくなった。
いつも気丈で元気な母を、生まれてから20数年間見続けていただけに、今、目の前にいる母を見るのがつらかった。
きっと母もつらかったと思う。
かなしそうな顔をして自分を見ている娘を見るのは。
「言葉」では何も言わなかったけれど。
10月27日12時20分、母は亡くなった。
前の日遅くまで病院にいて、朝、病院に来るのが昼前になってしまった。
病院に着いたらまず真っ先に必ず母に話しかけていた。
何も言わなかったけど、きっと聞いてるはずだと思った。
その日もいつものように病室に入って話しかけて、母の手を握った。
握った瞬間、横にあった心拍数を知らせる数値とメーターが急に下がり始めた。
一瞬、私が何か間違ったスイッチでも押してしまったのかと思ってあせった。
担当医と看護婦が一斉に病室に駆け込んできて、心臓マッサージを始めた。
おじいちゃんと、母の妹にあたるおばさんが駆け込んできた。
数分後、山を描いていたメーターが一直線になり、数字が「0」を示した。
実はそこからの記憶があまりない。
まず真っ先に会社の、当時私の直属上司である事業部長(現・弊社社長)に電話をした。
「当分、会社にはいけなくなると思います」と。
そこから廊下に出て、たぶん気を失ったのか、次に気が付いたときには待合室に座らされていた。
横にはおじいちゃんと婦長さんがいたのを覚えている。
またそこからの記憶がない。
下を向いて何を言っても反応がない私を、数回おじいちゃんが叱っていた気がする。
「今、おまえがそんなになってどうする、しっかりしろ!」と。
あの後、病院からどう帰り、葬儀屋と何を話したのかも覚えていないが、夕方頃家に着いたら親友が集まってくれていて、私の帰りを待っていてくれた。すごく嬉しかった。
無事葬儀が行えたことを考えると、何かリモートコントロールのようなもので私のカラダが動かされていたのだと思うが、少なくともココロは停止していた。
人生の中で記憶が飛んでいるのは、あの日一日だけだった。
そんな話を墓参りの車の中、3年ぶりに思い出して話をしていた。
ただただひたすら話をしていた。
思い返しても、大変だったなと思う。
自分のことながら、よくやったと思う。
いつもは「自分」を誉めないが、これだけは誉めよう思う。
夜の病棟に足を踏み入れることと、テレビで心拍数を知らせる機器が映るシーンを見るのができなくなった。
足がすくむ。トラウマになってしまった。
母は今、どこで何をしているのだろうか。
絶好調ではないけれど、あなたの娘は何とかこの世で頑張って暮らしています。